連載・ジャズの散歩道 by 瑠居剛史 〜連載6

天才トランペッター■連載6.クリフォード・ブラウンの伝記

「クリフォード・ブラウン 天才トランペッターの生涯」
CLIFFORD BROWN The Life and Art of the Legendary Jazz Trumpeter
(音楽之友社 2003年7月翻訳出版 / 原書は2000年に刊行)著者:ニック・カタラーノ(Nick Catalano)はペイス大学(ニューヨーク州)のパフォーミング・アーツ担当教授でジャズの講義を持つと同時に自ら演奏し、プロデュースにもあたり、執筆活動も行っている。訳者:川嶋文丸は1947年札幌生まれ。1971年東京外国語大学英米語学科卒。レコード会社BMGに勤務務したのち、フリーで執筆、翻訳に従事。

本書が翻訳出版されてから10年余が経ちましたが、最近インターネットで本書に関する数件の投稿に出会い、クリフォード・ブラウンへの関心の深さを改めて認識しました。
本書はクリフォードの幼年期から最後の飛翔までを緻密な伝記として刊行されたもので、著者の並々ならぬ労力と考察がうかがえます。著者の作業はブラウンと共演した、また親交のあったミュージシャンたちへのインタビューから有益な情報を得たこと。中でもアート・ファーマーには特別な謝意を表し、アートが出版直前に亡くなってしまったことは大変残念だったと記しています。注)アート・ファーマーは1999年10月4日に亡くなりました。
本書を読み返し、いくつかの事項を断片的にひろいあげながら、関連のある事象も加えて紹介してみます。愛称ブラウニーことクリフォード・ブラウンは1930年10月30日デラウェア州ウィルミントンに生まれ。1956年6月26日ペンシルベニア州のターンパイクで交通事故死。若干25才だった。並外れた努力の天才の演奏活動は4年に満たない僅かな期間でした。(ブラウニーの愛称は、父ジョー・ブラウンのニック・ネーム)

■クリフォードは少年期によき指導者に恵まれた。
☆個人レッスンをしたロバート・“ボイジー”・ロワリーは元々ジャズ・ミュージシャンで、ジャズの歴史的変化を体験しあらゆるスタイルに精通。「私のレッスンは教則本からはスタートしなかった。まず最初に“どうやって聴くか”を教えた。一番重要なことは聴く能力なんだ。カレッジで勉強はしたけれど、まともなインプロヴィゼーションができないミュージシャンを私は何人も知っている。彼らは聴くことができないんだ。なにかをやろうと思ったら、まずそれを聴くことから始めなければいけない」と語っている。また、自分の練習は録音しておくよう薦め、ブラウンは生涯この忠告を実行した。
■自動車事故〜回復への努力
☆1950年6月、19才のブラウンは自動車事故で両足と胴体の右側を何か所も骨折し瀕死の重傷を負った。全てのものがいきなり中断し、挫折感と絶望感に襲われた。しかしディジー・ガレスピーの見舞いと励ましの言葉で奮起し、苦痛に耐え、リハビリテーションを悲劇を乗り越えるべきチャレンジだとして前向きに受け止めた。
☆並外れた努力の天才
ようやく松葉杖を使いながらも、なんとか長時間トランペットを持ち続けることができるようになった。そして再び練習が始まり唇の周辺が元に戻ると、マラソン練習を再開。朝から晩まで練習している音が近所中に響き渡っていた。
■ブラウンの人柄とエピソード
☆約1年間の治療とリハビリ、そして日々の練習を続け快方に向かったブラウンは、再びフィラデルフィアのジャズ・シーンに。多くのミュージシャンとのセッションに参加し研鑽に励んだ。
☆1951年5月のある日、チャーリー・パーカーはフィラデルフィアの『クラブ・ハーレム』に出演の際、トランペッターのベニー・ハリスをクビにしてしまい、渋い顔をしていたところに、たまたまブラウンの話を聞き、オーナーに『いますぐ奴を呼んでくれ!』と叫んだ。電話で呼び出されたブラウンは、信じられない様子だった。ステージはパーカーとブラウンに3リズムのクインテットで進行。ステージがスムースに終わると、パーカーはブラウニーに向かって『信じられない! お前さんのプレイを確かに聴いたけど、それでも信じられない!』と。めったに褒めないパーカーから称賛されたのだった。
☆1950年代はR&Bが主流を占め、黒人層を中心に全米に巨大な数のファンがいた。一流のミュージシャンの多くが長期にわたってジャズ以外の仕事に携わっていた時代で、ブラウンも例外ではなく定期的な仕事がなく、収入の問題を抱えていた。1951年もおわりのころ、R&Bの人気スター、クリス・パウエルに誘われバンドのメンバーに。クリス・パウエルはブラウンが自分のバンドのメンバーであることを大変自慢にしていた。『あんな素晴しい才能を持ったミュージシャンにしては、彼は控えめ過ぎたよ。丁寧で、礼儀正しくて・・・およそこの世にいるとは思えないくらい、いい奴だった。誠実で、辛抱強かった』

THE BEGINNING AND THE END

(THE END の録音年月日が訂正されたCDジャケット写真)

クリス・パウエル・アンド・ヒス・ブルー・フレイムズはOkehレコードと契約。
1952年3月21日に4曲を録音。そのうちの2曲がクリフォード・ブラウンの「ザ・ビギニング・アンド・ジ・エンド」(TheBeginning And The End) に収録されています。尚、The Endの3曲は交通事故死前夜の1956年6月25日録音として話題を呼んだが、著者ニック・カタラーノの調査によって約1年前の1955年5月31日録音と判明。以後CD化で録音日は訂正されています。

☆R&Bバンドで1年4か月を過ごし、ついに待ち焦がれていた一流ミュージシャンとのジャズ・レコーディングのチャンスを得た。ブルー・ノート・レコードのアルフレッド・ライオンからオリジナルを用意するよう依頼され「ブラウニー・スピークス」を作曲。ルー・ドナルドソンとのクインテットで録音された。
☆チャーリー・パーカーは機会あるごとに、この21歳のトランペッターへの称賛の言葉を口にしていた。アート・ブレイキーはフィラデルフィアでのクラブ出演のためメンバーを集めようとしているとき、パーカーはブレイキーに向って、こう断言したという。『トランペット・プレイヤーは連れて行かなくていい。クリフォード・ブラウンを聴けば、その必要がないことが判るだろう』と。
☆クインシー・ジョーンズ『ブラウニーは自己に厳しかった。いつも懸命に努力し、彼の姿勢はクリーンそのものだった。人間としての、ミュージシャンとしての完璧さと自己鍛錬、その見本が彼なんだ』
☆ソニー・ロリンズはハイにならないと良い演奏はできないと考えていた。しかしブラウニーに出会ったとたん、目からウロコが落ち、真っ当に生きようと心に決めた。『クリフォードは私の人生に深い影響を与えた。彼は正しいクリーンな生活を送っていてもなお、同時に立派なジャズ・ミュージシャンでいられることを教えてくれた』と述懐。
☆アイラ・ギトラーは『ブラウニーが最初のソロをとり始めると、コントロール・ルームにいた私は椅子から転げ落ちそうになった。そのパワー、音域、輝かしさ、それに温かいサウンドと創意ゆたかなアイディアはファッツ・ナヴァロ以来の感動を与えてくれた』
☆クリフォード・ブラウンは、教養があり、音楽の才能にも恵まれた若く魅力的なラルー・アンダーソンに強く惹かれ、“ラルー”というタイトルのバラードを作り、彼女をサンタモニカの浜辺に連れ出した。そしてトランペットを取出し、砂浜と海を背景にしてそのバラードを吹いた。そして「僕の音楽と僕と結婚してくれないか」と彼女に告げた。
ラルーは彼の求婚を受け入れた。そして、そのバラードは自分たちの特別なものとして、決してレコーディングしなかった。(女性の皆さん、「なんと素敵なプロポーズ_」と思いませんか)
☆スタン・ゲッツは金銭トラブルで乱闘騒ぎを引き起こした。(1953~54年、ゲッツは深刻な麻薬中毒に陥っていて、54年シアトルでモルヒネ欲しさにドラッグ・ストアで強盗未遂事件を起こし逮捕され、ヘロイン中毒で実刑判決されたことではないだろうか?)ブラウニーはかもく寡黙にゲッツ支援のためのコンサートを催し、500ドルを彼に贈った。同じミュージシャン仲間とはいえ、黒人が白人にこのような行為を率先して行ったことで、クリフォード・ブラウンを称賛する声は高まった。
☆ある日、仕事先のワシントンDCでラファエル・メンデスが、控室を訪れ、クリフォード・ブラウンに会いたいと云った。ブラウンと握手しながら、メンデスは「あなたに関して素晴しい噂を耳にしている」と語り、自分の書いた最新の楽譜集を持参していて、ブラウンはそれを見せてくれと頼んだ。そして1時間も経たないうちに、二人はメンデスの楽譜集を見ながらデュエットしていた。メンデスはクリフォード・ブラウンの音楽性に感激し、その楽譜と自分の使っていた楽器を彼にプレゼントした。
RAFAEL MENDEZラファエル・メンデス(Rafael Mendez):1906-3-26~1981-9-15メキシコ生まれの世界的に有名な クラシック界のトランペット奏者(YouTubeに動画あり)。
以前、ある中古レコード店でジャズLPのエサ箱をあさっていたとき、たまたま隣の箱にラファエル・メンデスのLPジャケットが目に入り購入しておきました。ヤッシャ・ハイフェッツが演奏した難曲「ホラ・スタッカート」も入っていて、調べてみましたらメンデスは“ハイフェッツ・オブ・トランペット”と称されていたんですね。
☆クリフォード・ブラウン最後の音源 / The Last Concert
正規の録音ではないが、ヴァージニア州ノーフォークの「コンチネンタル・レストラン」でのコンサート録音がCD化発売されています。多くのプライベート録音の中でも最も重要な記録であろうと記されています。
The Last Concert

ブラウンが交通事故死した8日前の1956年6月18日の録音。