連載・ジャズの散歩道 by 瑠居剛史 〜連載4

■連載4.SPレコードの材料・シェラック(Shellac)について
4large○動物性天然樹脂の一種である。
○中国南部からタイやインド〜インドネシア、フィリピン、台湾に棲息する“ラックカイガラムシ”というカイガラムシの仲間の昆虫が、マメ科、ムクロジ科、クロウメモドキ科などの種々の樹木の枝に寄生し、自らの身体の保護のために樹液を吸って体外に分泌した樹枝状物質で、虫が群集するために樹脂層が塊となって棒状になるので「スティック・ラック(Stic Lac)」と呼ばれている。maleはオス、 femaleはメス。

○採集後ただちに掻き落とし、水洗、最後に炭酸ソーダ液で洗い乾燥する。
○この形にしたものをシードラックといい、これを袋に入れて暖め溶融し、薄片(シェラック)にし、または粒状(ガーネットラック、ボタンラック)にして商品化する。シェラックとはシードラックから精製した天然ポリエステル樹脂なのです。
○シェラックはアルコールに溶けやすく、また天然樹脂としては珍しく熱硬化性があり、熱硬化するとアルコールに溶けにくくなる。
○用途としては蓄音機用レコードの原料となり、速乾性アルコールワニスとして塗膜の硬度が高く、滑らかな面が得られ磨くことが出来る特性があり、耐水性に乏しい欠点はあるが家具塗料として多く用いられる。注)昆虫が集団で木の枝に分泌した天然樹脂を原料としたので、現在も家具などの高級塗料として用いられている。
○電気絶縁被膜用にも多く用いられ、フェルト帽子の硬化、花火・爆薬の粘結剤、封ろう(シーリングワックス)の原料にも使われ、熱硬化性を利用して蛍光灯や電球のガラスと金属部分の接着、精密機械の防錆・断熱材などの近代産業にも利用され、タイ、インドの輸出産物になっていて、日本でもかなりの量が輸入されている。
○SPレコードは、酸化アルミニュウムや硫酸バリュウムなどの微粉末をシェラックで固めた混合物を主原料としており、針圧が120g前後の鉄針(昔の蓄音機)のトレースに耐えられる硬度を持つが、落下や衝撃に大変弱く割れ易い。
<第二次世界大戦とシェラック不足>
○第二次世界大戦(1939年9月〜1945年8月15日)
○日本は1941年12月8日真珠湾を奇襲すると共に、マレー半島に上陸し米・英と交戦、太平洋戦争が始まった。
○戦中、戦後の物資事情の悪化は、シェラックの品不足にも波及し、レコード(78回転SP)の生産に影響。レコードの芯にボール紙を使用するなど、盤質の低下(劣悪)を生んでしまった。
注)この時期のSP盤は「Surface Noiseのひどいものがあるので要注意」と言われている
○メイジャーのコロムビア、ビクター、デッカは、レコードの生産を抑えざるを得ず、手を広げる余裕はなくなっていた。よって低級なものとみなされたブラック・ミュージックは、シェラック不足も相俟って手つかずの状態であった。
○日本でも戦争中はシェラックの輸入が途絶え、物資不足のため国家により貴金属類などと共に、SPレコードも回収(供出命令?)され、それを潰して電球のソケットなどに再生された。注)ジャズなどの敵性音楽レコードのコレクターが対象になったのでは?と推察する。一般家庭のレコードまでは及ばなかったようだが、ジャズ仲間の先輩の話では、「戦時中は押入れの中で布団を掛けてジャズ・レコードを聴いていた」と。
○SP時代の最後のジャズ・レコードは、ヴィクター・フェルドマンが米国に移住する前の1955年にTempo  Recordsに録音したもので、翌1956年に発売されたとしていますが、材質はシェラックかどうかは不明。日本コロムビアは1962年(S.37年)に生産・発売を終了。
注)SPレコードはStandard Playing またはShort Playingの略。国際的には78rpm Recordと呼ばれるが、日本ではSPレコードと言う呼称が一般的だ。機械録音時代のレコードは概ね78〜80回転の間だったようです。数年前、King Oliverの絶頂期である1923年、セカンド・コルネットにルイ・アームストロングを加えた録音がCD化され、そのデータに曲ごとのSP盤回転数が記載されているが、78.46〜81.21までのバラツキとなっている。

<補足・参考事項/レコード業界の動向など>
○史上初のジャズ・レコードはOriginal Dixieland Jazz Band(略称O.D.J.Bニューオーリンズ出身の白人バンド)で、1917年1月30日にコロムビアに録音したものとされているが、録音日はビクターが先という他説もある。コロムビアの録音技師は、演奏された凄まじい音に驚き、各楽器の配置に手間取ったそうだ。1917年2月26日にビクターが録音した時は、録音技師が各楽器の適切な配置をし、全体のバランスはコロムビア録音より良好。
○1918年まで、アメリカのレコード産業はビクターとコロムビアの独占状態であった。しかし、この年Gennett  Records が起こした独占禁止法の裁判でビクターとコロムビアは負け、その結果たくさんのマイナー・レーベルが誕生した。
○アメリカでは、第二次世界大戦中から戦後にかけての数年間、あらゆる分野と同様に、音楽・放送(ラジオ・テレビ)の世界でも戦後の姿を見極めるべき動きがあったようである。即ち、大戦景気に伴う好況によって所得が倍増し、購買が上昇したこと。シェラック不足も、戦後急速に解消され、音楽の消費ブーム到来と市場の急速な回復は、新興レーベルにとってよい風向きとなり、メイジャーの「食べ残し分野」のレース・ミュージック(ブルース、R&Bなど)に注力し、人種的、階級的偏見をくつがえすビジネスの発展を見出したと推察できる。
●レコード業界の独立レーベル(Independent Label)の誕生ラッシュ。
主たるジャズ・レーベルは、
1942年:Apollo
1943年:Continental
1944年:King,Specialty,Savoy
1945年:Aladdin
1946年:Dial,Mercury
1947年:Atlantic,Regent,Discovery,Imperial
などである。独立レーベルの経営者たちの多くは、ユダヤ系であったとされている。
●この現象は、20年代初頭にマミー・スミス、マ・レイニーなど、優れたブルース・シンガーをはじめ、黒人ミュージシャンの多くの録音を残したレース・レコード(黒人市場をターゲットにしたOkeh,Paramaount,Gennett,Black Swan,Sunshineなどのレーベル)の活動によく似ているように思える。
●レース・レコード(黒人向けレコード)は、レコード会社(メイジャー・レーベル)も宣伝して売ろうとしてリストを作り、カタログ・ナンバーで区別していた。黒人ミュージシャンの録音はレース・レコードとして発売され、この方法は1940年まで続いた。

(本稿は、複数の資料を参考にすると共に、私的考察も含めたものであります。)